ヴェーバー紹介ついでに――柳父圀近『エートスとクラトス』も読み返す

柳父圀近『エートスとクラトス――政治思想史における宗教の問題』創文社、1992年

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 前回、ヴェーバーの『職業としての政治 職業としての学問』の新訳を紹介しましたが、こういうものの「現代的意義」とか、あるいは日本社会で読む意義について、本当によく考えていたのが柳父圀近氏だと思います。というか、そういうことを教えてくれたのが、大学生時代に(他学部ながらもぐらせてもらっていた講義やゼミで)教えてくれたのが柳父氏でした。
 ちょうど僕が学部生の時代に、ポストモダニストとしてのヴェーバーみたいなのが、「新しい入門」として出てきて、神々の闘争の時代における決断なんだ、みたいな話になっていて、これが入門とは大いに困ったことだと、柳父氏と話したことを思い出します。当時は、「丸山真男も大塚久雄も、国民主義者で帝国主義者だった」と切り捨てるような乱暴な話が流行っていて、ヴェーバーもその流れで「新しい読み」みたいな対象になった影響もあったでしょう。

 しかし、やはりヴェーバーが第一次大戦の前後のドイツで何を考えていたのか、と同様に、丸山や大塚が、戦中の軍国主義国家であった日本に対して、そして敗戦を迎えて戦後に来たるべき社会像を求めていた日本に対して、何を訴えたくて「国民」や「市民」という議論を立てたのか、ということは、やっぱり考えなくてはならないと思うわけです。
 ところが、戦後50年と言われた1995年を過ぎてから、とくに2000年以降に大学に入った学部生や大学院生と話をすると、丸山も大塚もそれ自体はまったく読まれずに、「古いナショナリストの社会科学者ね」と唾棄ないし黙殺の対象となっていたり、あるいは「誰それ?」と忘却されていたり。
 退廃の成れの果てといった感じです。

 ともあれ、こういう問題意識を教えてくれた柳父氏も、この3月末で定年となり、記念ゼミもありました。「マックス・ウェーバーと日本――宗教社会学と支配の社会学の視座から」というタイトルで報告をされ、元となる長文のペーパーも配られました。
 彼が、いまの日本の政治経済を強く憂えるなかで、やはり戦後に新しい民主主義を自分たちの手にできなかったことが、いまなお深刻に尾を引いている、ということを意識しているようでした。そこにこそ丸山・大塚の課題があったであろうに、と。

 その柳父氏の主著と言えるのが、『エートスとクラトス』。
目次
緒言 政治思想史における「魔術からの解放」
1 マックス・ウェーバーにおける政治と宗教
2 「専制神」と「解放のゲマインデ」
3 ウェーバーとトレルチ――宗教社会学とドイツ精神史
4 価値合理性と目的合理性
5 マックス・ウェーバーの大統領制論
6 パウル・ティリッヒの政治思想
7 「原初神話」と社会有機体説
8 天皇制伝統と政教分離――精神と国家の成人性

 いまさら、というか、いまこそ、再読。

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