梅木達郎の翻訳書を三冊まとめて紹介する――デリダ、ドゥギー、崇高論集

◆ジャック・デリダ、『火ここになき灰』、梅木達郎訳、松籟社、2003年
◆ミッシェル・ドゥギー、『尽き果てることなきものへ――喪をめぐる省察』、梅木達郎訳、松籟社、2000年
◆ミシェル・ドゥギー、他著、『崇高とは何か』、梅木達郎訳、法政大学出版局、1999年


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 梅木さんの『支配なき公共性』(洛北出版)の紹介ついでに、梅木さんの関連する訳業も。
 デリダ『火ここになき灰』とドゥギー『尽き果てることなきものへ』(ともに松籟社)は、翻訳の可能性と不可能性に挑戦した、とてつもない仕事だったと思う。

 実際、『火ここになき灰』は、デリダのテクストのなかでも、最も奇妙なものだと言える。「そこに灰がある」という一文をめぐって、複数の声からなる対話が繰り広げられる。それは二人の対話ともかぎらないので、ダイアローグではなくポリローグだ。しかも、原書では左右の頁に、日本語訳では上下段に、もう一つ別のテクストが並行している。それは、デリダ自身の『ディセミナシオン』や『弔鐘』といったテクストからの部分的引用からなるもので、ポリローグに対する注解とも読める。あるいは逆に、自己引用をポリローグが注解しているのか。いずれにせよ、「複数の声」が増幅されている。
 さらに、フランスでは、デリダ自身とある女優とがこのテクスト朗読したカセットテープとともに刊行されるという試みがなされており、そのためか、日本では梅木訳の同書を「台本」として、芥正彦&新井純が『火ここになき灰』を「上演」している。きわめつけは、劇団Lensがこのテクストに独特の解釈を加え、「そこに灰がある」という「演劇」にしたものだ。
 そもそも同定不可能なものの形象ならざる「痕跡」としてデリダは「灰」を繰り返し論じ、そのことで脱構築の思想およびそこに正義の肯定という問題を賭けている。それを精緻に読解した梅木さんの長大な訳者解説も見事だ。

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 ドゥギー『尽き果てることなきものへ』は、著者が妻の死に直面したときに、かろうじて発することができたつぶやきのような言葉の断片の集まりであり、それは、論理的展開としての始まりも終わりもなく、断片は不連続であり、そのあいだには多くの余白が挟まれている。
 梅木さんは解説で、「突然やってきた死(死の到来は、たとえ予測不可能であったとしても、つねに唐突である)に直面し、狼狽し、破綻させられてしまったような言葉の数々が、始まってはとぎれ、とぎれては続いていく」 。そして断片化が必然的とも言えるのは、「いかなる美辞麗句も死は受けつけない。死と正対し、死と正しく釣り合いを保つような「的確な」言葉を見いだすことは「ほとんど」不可能」 であるからだ、と言う。
 言葉は、死に対しても、死者に対しても、原理的に・徹底的に、不均衡でしかない。この不均衡は是正されえない。もしそのことに無自覚に、常套句的な追悼の辞で、死者の死を意味づけ、了解し、「均衡」を取り戻そうとすれば、それは、他者(死者)を自己のうちに取り込み、かえって死者を忘却するということに帰結してしまう、というわけだ。
 梅木さん自身、上記デリダ『火ここになき灰』と、本書ドゥギー『尽き果てることなきものへ』と、そしてジャン=リュック・ナンシー『哲学の忘却』(大西雅一郎訳、松籟社)を並べて、松籟社の「忘却」三部作、と位置づけている。

   *   *   *

 最後に、論集『崇高とは何か』(法政大学出版局)について。まず目次を挙げておく。
序言(ジャン=リュック・ナンシー)
大‐言(ミシェル・ドゥギー)
崇高な捧げもの(ジャン=リュック・ナンシー)
カントあるいは崇高なるものの単純さ(エリアーヌ・エスクーバ)
崇高なる真理(フィリップ・ラクー=ラバルト)
崇高なるものの関心(ジャン=フランソワ・リオタール)
世界の贈与(ジャコブ・ロゴザンスキー)
悲劇と崇高性(ジャン=フランソワ・クルティーヌ)
プッサンの一枚の絵におけるバベルの塔について(ルイ・マラン)

 全400頁超。これを短期間で訳しあげたのだから驚く。
 実のところ、宮崎くん(『判断と崇高』)とともに出た梅木さんの自主ゼミで、このなかのラクー=ラバルト「崇高なる真理」を読んだというのは、梅木さんが本書の翻訳で忙しかった時期であった。それまで自主ゼミでは、デリダを読むのが常であった。が、この年、梅木さんは急遽、本書の日本語訳を「大至急」で依頼され、自主ゼミのテキスト選択にも影響したのだった。どうやら、誰か最初に引き受けた他の訳者が歯が立たず何年も翻訳が進まなかったものを、これ以上版権を更新できない版元が、梅木さんに懇願してきた、と当時聞いた。
 訳者あとがきでも、自主ゼミのことやその他の協力者に言及があるが、上記のような事情から梅木さんは、周囲の助力も得ながらすさまじい勢いで短期間で、本書を美しい日本語へ訳してしまった。ラクー=ラバルト以外にも、個人的にはリオタール論考について、原文とつき合わせてのチェックの手伝いをしたが、読みやすさに驚きながら作業をした記憶がある。
 その後本書は、宮崎くんの著書以外でも、日本語圏で「崇高論」について論ずるときの基本文献となっている。

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火ここになき灰
松籟社
ジャック デリダ

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灰の註釈本書はデリダ ...
「火灰/亡き灰」「そ ...
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尽き果てることなきものへ―喪をめぐる省察
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