これも「残傷」を聞き読み語る試み――金石範を囲むシンポジウムの記録『異郷の日本語』

金石範、崔真碩、佐藤泉、片山宏行、李静和
『異郷の日本語』、社会評論社、2009年


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 青山学院大学の日本文学科でおこなわれたシンポジウムの記録を一冊にまとめたものだ。
 参加メンバーを見てわかるように、先に紹介した李静和編『残傷の音――「アジア・政治・アート」の未来へ』とも深く呼応する企画だと感じた。崔真碩さん、佐藤泉さん、李静和さんの三人が重なっている。その意味では、このシンポジウムもまた、「残傷の音」に耳を傾け、そして語る試みなのだと思う。
 とりわけここでの「残傷の音」は「日本語」だ。残傷としての日本語、と言うべきか。つまりは、植民地支配がもたらした日本語、被支配者である朝鮮人から母語を奪って強制した日本語であったり、あるいは入植した日本人が現地で支配者として使う日本語であったりする。そして戦後・植民地支配の公的な終了後もなお、その二世・三世たちによって、「傷」としての日本語は残りつづける。
 日本語を国民国家の単一言語(国語)のように自明視するのではなく、むしろ異化すること。「日本文学」ではなく「日本語文学」なのだと、基調講演で金石範さんは主張した。『鴉の死』から始まり『火山島』で頂点を極める傑出した作品を生み出した金石範さんの文学は、「日本文学」でも「朝鮮文学」でもない。
 その金石範さんが、「文学的想像力と普遍性」という、文学の本質に関わる大きなテーマで熱く語った。

 本書後半は、金石範講演を受けて、崔真碩、佐藤泉、片山宏行、三氏の個別報告。
 崔真碩さんは、李箱という、1930年代の植民地朝鮮の京城で活躍し、日本に渡り、若くして東京で亡くなった作家を、日本語に「翻訳する」という経験を通して、金石範氏の言う「ことばの呪縛」に迫った。
 佐藤泉さんは、植民地朝鮮の外地教員の娘として生まれ育った「植民二世」の森崎和江が、そこで身につけた人口語的な「日本語」と、森崎と同世代の「在日二世」である金時鐘の使う「日本語」とを並べながら、その言葉を通して「歴史」や「アジア」や「民族」に向かうことの困難と可能性を追っている。
 片山宏行氏は、菊池寛の朝鮮観・朝鮮文学観を分析しつつ、その根底にあるロマン主義と合理主義、人道主義とパターナリズム、そういったもののアンビヴァレンスを読み取っている。

 さらに、討議・会場質疑の再録では、金石範さんと崔真碩さんが再度熱く語り、李静和さんが司会者というよりもコメンテーターとして講演と三報告について踏み込んだ発言をしている。会場の熱気がそのままに伝わってくる。
 そして巻末には、佐藤泉さんの解説、というかほとんど独立した長篇論文、「非場所の日本語――朝鮮・台湾・金石範の済州」が収められている。日本の植民地支配を経た冷戦的戦後における朝鮮戦争、台湾・二二八事件、済州島四・三事件など、政治史的背景をきっちりとふまえながら論じている重要論考。
 本の表紙には一発言者のようにしか名前が出ていないが、佐藤泉さんが、このシンポジウムの企画者であり、また本書の編者である。

 『残傷の音――「アジア・政治・アート」の未来へ』と前後しての刊行となったのは、ある意味必然的だったと思う。合わせて読まれたい。 

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