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zoom RSS 群島論の底流にはジャン・ジュネ/梅木達郎の〈放浪〉が響いている――今福龍太・吉増剛造『アーキペラゴ』

<<   作成日時 : 2009/07/09 12:00   >>

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今福龍太・吉増剛造『アーキペラゴ――群島としての世界へ』、2006年
今福龍太、『群島-世界論』、岩波書店、2008年

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 先日、東大UTCPで「群島的思考――日本における移動する理論」というセミナーが開かれ、報告者であるデンニッツァ・ガブラコヴァさんと、UTCPリーダーの小林康夫さんとのあいだで、興味深い討議が交わされた。その様子については、UTCPブログに報告を書いた。詳細はそこを参照。

 さて、今福龍太『群島-世界論』によって熱い注目を集めている群島論。各方面から絶賛状態だが、しかし、そのセミナーで小林康夫さんが示した懸念(今福群島論には強い近代的認識主体によって世界制覇をしようというコロニアルな欲望が潜んではいないか)はたいへんに興味深いポイントであった。そして、それに先立つ対談『アーキペラゴ』の巻頭対談で、実は吉増氏が今福氏の議論を引き受けているように見えながら、上記の懸念からか、同じテーマで話していながら一定の異論を挟んでいるように見えた。

 ところで、この群島論のポイントは「反転」。大陸中心の近代史が、実は海洋交易によって開始されているという逆説を、海から、群島から、世界史ヴィジョンを再構築するというもの。地と図を反転させるかのように。
 この認識論的反転を、吉増氏は、ヴァルター・ベンヤミンの「靴下を裏返す」というエッセイからもってきている。さらに、手袋の裏返しというふうにも言い換えている。しかもこの「反転」の思考は、「傷」ともワンセットになっている。欠陥かもしれない傷口から反転が可能になるという逆説。あるいは「両刃の剣」。

 僕はここに、ジャン・ジュネが、より正確には、梅木達郎『放浪文学論――ジャン・ジュネの余白に』が息づいているのを感じた。
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 というのも、かつて吉増氏は、『剥きだしの野の花――詩から世界へ』(2001)で、まさにこの梅木『放浪文学論』の「反転」の章にある、ジュネの「手袋」の反転(=裏切り)の話を引いていたからだ。
 それだけではない、『放浪文学論』のもう一つの核心が、「傷」だ。固有な共同体と見えたものも、この傷口から内部が漏れ出し、そして外部へと裏返る。ジュネにとって「祖国」とは傷そのもののことだった、と梅木氏は言う。
 だから僕は、群島をめぐる議論の底流に、ジュネの放浪が響いているのを感じた。

 それだけではない。『アーキペラゴ』の巻末には、今福氏によるジャック・デリダ『火ここになき灰』(梅木達郎訳、松籟社)への論及がある。形なき灰とは、同定不可能な、存在と非在を反転させる逆説的な形象だ。この謎めいた多義的なデリダのテクストを、果敢に日本語に翻訳にしたのも梅木氏だった。
 なので、『アーキペラゴ』には、巻頭から巻末まで、梅木氏の声が響いている。そう感じた。
 「群島」思考は、「放浪」(ジュネ)、「灰」(デリダ)と通じている。
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