ささやかな追悼の気持ちを込めて再読――村山敏勝『(見えない)欲望に向けて』(人文書院)

村山敏勝『(見えない)欲望に向けて――クィア批評との対話』(人文書院、2005年)

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 僕が村山敏勝さんと知り合ったのは、李静和さんの「アジア・政治・アート」のプロジェクトででした。彼は、ある意味「畑違い」のそのプロジェクトを、楽しそうに支えていました。畑違いと言えば、そこに参加していた僕もそうなのですが。
 ともあれ、その成果が『残傷の音』(岩波)として刊行され、もちろん同書は、村山さんの思い出に捧げられました。
 本書を手にして、「三つの日付」を読み、あらためて時間の流れと滞留を感じ、そして先日開かれた本書刊行の集いにも参加できました。

 プロジェクトはこうして形になり、一区切りついていくようですが、この期に、あらためて村山さんのお仕事を読み直そうと思いました。
 本書『(見えない)欲望に向けて――クィア批評との対話』は、彼の唯一の単著となりました。これまでの主要論考の集大成であり、博論でもありました。刊行が2005年ですので、それからわずか一年と少しで急逝されました。ほんとうにこれからというところで、惜しまれます。
【目次】
 I 見えない欲望を読む
第一章 セジウィックとホモソーシャル/ホモセクシュアル連
     続体
第二章 男と男のあいだ ――『デイヴィッド・コパーフィー
     ルド』のセクシュアリティ
第三章 ジェイン・オースティンを読む兵士たち

 II プライヴァシーの亀裂と侵犯
第四章 わたしは作文を引き裂いた
     ――『ヴィレット』と語る女性の私的領域
第五章 登場人物には秘密がない
     ――E・M・フォースターのクローゼット

 III 精神分析とクィア批評の往還
第六章 欲望はそこにある
     ――ジジェク、コプチェク、固い現実界
第七章 主体化されない残余≒去勢
     ――ジュディス・バトラーと誤読のポリティクス
第八章 孤独なマゾヒズム
     ――レオ・ベルサーニへの斜線

【帯の言葉】
他人を感じたいという性的な欲望がなければ、
そもそもなぜ書物など読むのか。
めんどうな理論を学ぶのも、
他者の思考を追体験したいという欲望のため以外、
なにがあるのか。
〈読む〉ことは快楽である。
【帯裏】
本書は、文学を読むことの快楽と、狭い意味での性的快楽との区別を、意図的に混線させる試みである。それは、密やかであるべき性(と読書)の喜びを公衆の目の前にさらけだす、あられもない自己露出の試みであるかもしれない。批評とは、プライヴェートな体験をパブリックな場に開く作業だからだ。クィア批評がいそしむのは、こうした営みである。(序文より)

 このひじょうにコンパクトに切り取られた短い帯文に、ドキリとさせられるものがあります。結局僕のしていることも、そういうことなのか、と。

 それはさておき、クィア批評というところで、もし村山さんが生きていたなら、僕と友人とで翻訳刊行したボヤーリン兄弟の『ディアスポラの力』をどう読んで、どんなコメントをくれるかな、と想像しながら村山さんの本を読みました。ボヤーリン兄弟のうちとくにダニエルのほうは、クィア批評分野でも活躍している論者です。
 その他、バトラー、ジジェク、コプチェクなどの名前が並ぶ第III部のほうに僕個人は惹かれてつつ、また村山さんにボヤーリンの訳書を見てもらえなかったことを残念に思いつつ、彼と〈対話〉をしながら読みました。

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