宮崎裕助『判断と崇高』の刊行をきっかけに、梅木達郎『支配なき公共性』(洛北出版)を再読する

梅木達郎、『支配なき公共性ーーデリダ・灰・複数性』、洛北出版、2005年

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 宮崎裕助『判断と崇高』を取り上げたついでに、梅木さんの『支配なき公共性』を再掲。

第一部
 崇高論をめぐって――弁証法から誇張法へ
 喪をめぐる省察――ドゥギー『尽き果てることなきものへ』
 灰を読むジャック・デリダ
 テクストを支配しないために――ジャック・デリダに
第二部
 国家・無縁・避難都市
 なしくずしの共同体――集団の言説の誕生
 夢みるパレスチナ――ジャン・ジュネ『恋する虜』から
 輝ける複数性――ハイデガーからアーレントへ


 この二部構成の配列は、宮崎君とも相談しながら、いろいろ考えて決められたものだ。
 冒頭の「崇高論をめぐって」は、梅木さんがミシェル・ドゥギーやジャン=フランソワ・リオタールなどの崇高論が収められたある論集を訳したことをきっかけに書かれた論考であったが、その論集には、梅木さんの自主ゼミで宮崎くんも私も参加していっしょに読んでいた、フィリップ・ラクー=ラバルトの崇高論も含まれている。
 この、すべてを体系性のなかに回収してしまおうとする弁証法的欲望への対抗としての「崇高」をめぐる思考は、デリダやジュネを媒介して、最終論考「輝ける複数性」に結実する。これは、梅木さん自身が前著『脱構築と公共性』(松籟社、2002年)での試みを大きく深化させた、長大な論考だ。アーレントの読みとしても、かなり特異でラディカルなもの(いわゆるアーレント好きの人びとからは出てこない種類のもの)だ。

 宮崎君の『崇高と判断』は、この梅木さんの「崇高論から(脱構築の思考を経て)公共性へ」という議論への応答、とりわけ最終論考への応答ともなっている。梅木さんが生きていたら、宮崎君の本に対して、さらにどういう応答をしただろうか、そしてどのように議論が深められただろうか。私のよく知る二人だからこそ、ありえたはずの対話を夢想せずにはいられない。
 しかしそれは、いまとなっては、『支配なき公共性』を読み返しながら、自分の頭のなかで無限に問いつづけるしかないのだ。

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