宮崎裕助『判断と崇高』――カントの『判断力批判』からデリダの『法の力』にいたるラディカルな論理展開

宮崎裕助、『判断と崇高――カント美学のポリティクス』、知泉書館、2009年

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 本書の主題にも副題にも明示はされていないが(しかし知る人が見れば明白かもしれないが)、本書は狭義のカント研究書ではない。カントの第三批判『判断力批判』から読み取られる「判断/決断/決定」の問題を、最終的にはジャック・デリダの『法の力』および『友愛のポリティクス』の提起する「決定の思考」と応答責任論に至るまで、ラディカルに読解しながら跡づけた、現代思想論である。
 その意味では、猫をかぶった(?)かのようなこの副題は、適切ではないかもしれない。「カントからデリダへ」というような流れは副題に示唆してほしかった。いやむしろ、「デリダからカントへ」、あるいは「Kant after Derrida」 とでも言うような、思考のトレースの仕方を著者はしている。その点で、本書の最終章第6章は、デリダ論を前面に押し出しており、まさに本書の白眉をなしている。

 著者は序において、各章はある程度独立しておりどの章から読み始めても構わない、と書いている。
 たしかに、半分はそのとおりで、それに従えば、何はさておいても、第6章のデリダ論をまずは読まなければならない、と思う。実際、第1章のようなガチガチの論理展開を追うことに疲れた読者が、第二部(3・4章)、第三部(5・6章)に辿り着かないかと心配だ。その意味では、まずは第6章へ、と人には勧めたい。
 けれども同時に、この一書は、やはり論理構成において、第1章から第6章へという流れのなかで、かなり厳密な論理展開を意識している哲学書であり(美学や崇高の問題から、不快さや暴力の問いを経て、政治つまり国家や主権の問題へ)、かつ同時に、カントから、ヴァルター・ベンヤミン、ハンナ・アーレント、カール・シュミット、カール・レーヴィット、ポール・ド・マン、ユルゲン・ハーバーマス、ジャン=フランソワ・リオタール、フィリップ・ラクー=ラバルトなどを経て、デリダへ、という思想史的流れを追うこともできる。その意味では、やはり第1章から通読すべき書物なのかもしれない。


第一部 判断 反省的判断力から美的判断力へ
 1 判断力の法
 2 判断の崇高
第二部 崇高 構想力と美的形式の問題
 3 構想-暴力
 4 吐き気
 補 物質的崇高
第三部 美的-政治的 美学化と決断主義への抵抗
 5 政治的判断力
 6 決断の帰趨
結論


 ところで、二点だけ、私的な事柄を付記したい。
 一つは、著者と私は、もう10年以上前のことになるが、東北大学の学部生時代に哲学科の同期であった。と書いたら、申し訳ないぐらいに、私のほうは「哲学」から落ちこぼれていった。それに対して、学部生時代から著者は、飛び抜けたテキスト読解力と、文献マニアぶりを発揮しており、群を抜く存在であった。そして著者は、当時から筋金入りのデリディアンであり、本書はその集大成をなす博士論文を刊行したものである。祝福したい。

 もう一点。著者も「あとがき」で記しているように、本書に結実する彼の哲学的思考に最初の一撃を与えたのは、故・梅木達郎氏である。著者の記す梅木氏との自主ゼミで、ラクー=ラバルトによる崇高論を読んだ自主ゼミには、私も同席していた。懐かしい思い出である。
 その梅木氏が急逝し、彼と私とが中心になって、梅木達郎『支配なき公共性――デリダ・灰・複数性』(洛北出版、2005年)を編集刊行したこともあった。この本も合わせて読めば、その「最初の一撃」の大きさがどれほど大きかったものかがよくわかると思う。

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