『週刊金曜日』1月16日号でガザ侵攻の記事掲載

『週刊金曜日』1月16日(734号)でイスラエルのガザ侵攻の記事

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 急遽、『週刊金曜日』に、イスラエルのガザ侵攻に関する記事を書きました。
 短いものですが、この問題が、ハマスの側の停戦延長拒否にあるのではないということを明示したつもりです。

 どうすれば分かりやすく伝えられるか悩みました。
 掘り下げればどこまでも可能です。シオニズム歴史全体の問題だから。なかでも、難民が密集する「ガザ地区」を生み出した1948年のイスラエル建国と第一次中東戦争は決定的ですし(これについては前の記事参照)、「占領」を考えるなら1967年の第三次中東戦争から見なくてはなりません。

 しかしこの記事では、とりあえず、87年の第一次インティファーダとその清算としての93年のオスロ合意に焦点を当てました。87年は政治組織としての「ハマス」の誕生の年でもあり、93年は占領地封鎖の始まりの年でもあるからです。西岸に先駆けて、ガザ地区全体がフェンスで囲い込まれたのは93年からになります。
 なぜ、「和平合意」であるオスロによって封鎖がおこなわれるのか。それは、インティファーダで懲りたイスラエルが、占領地を効率よくコントロールする手段として、「パレスチナ自治」を与え、それを口実に占領責任を放棄し、占領地からイスラエル側に労働者を入れないようにしたためです。「自治をするんだから、イスラエルは雇用の面倒を見る筋合いはない」として、それまで自由に入っていたパレスチナ人労働者を締め出したのです。
 これがガザ地区封鎖の始まりでした。

 イスラエルは、イスラエルとの境界を閉じていった一方で、西岸地区とヨルダンとの国境、ガザ地区とエジプト
との国境の管理に関してはパレスチナに「自治」を与えませんでした。つまり、「自治」というのは口実で、実際には、巨大監獄にしただけだったのです。
 加えて、東エルサレムも返してもらえず、西岸地区にユダヤ人入植地は飛躍的に拡大していく一方。自治など遠のくばかりでした。

 同時にイスラエルは、間接統治的な手下としてファタハを任命し、ファタハ中心のPLOに「代表性」を与えました。しかし上記のような監獄状況で、ファタハにできたことは、自らも監獄の内部にいる代理の管理人をさせられることだけでした。
 ここにハマスが抵抗勢力の受け皿として台頭する必然性があります。
 ですので、06年1月でのハマス勝利は当然のことでした。他に選択肢などなかったからです。ファタハを信任すれば、ただ占領が継続するだけだということが、オスロ以降の10年強で明白になっていました。

 選挙勝利以降のハマスの主張は単純明快でした。「イスラエルは東エルサレムも含めたすべての占領地を返還し、一つ残らず入植地を撤去し、国境管理権を譲渡し、完全なパレスチナ独立国家を認めよ。そうすればイスラエル国家を承認する」と。
 これは端的にオスロ合意の破棄を意味しました。
 イスラエルとPLOは手を携えて、ハマスに対しオスロ合意の尊重を要求しました。これが問題の核心です。そしてそれ以外にはありません。宗教原理主義がどうだとか、カッサム・ロケットがどうだとか、そういうことは争点ではないのです。イスラエルは西岸地区の占領(東エルサレムとユダヤ人入植地の併合など)を継続させたいためにオスロ合意をファタハに飲ませたのであり、ハマスはそれをこそ破棄させなければ独立はないと主張している。ここがポイントです。

 およそそういうことを解説した記事になります。
 ぜひお手に取ってお読みください。

 なお、同号には、ジャーナリストの小田切拓氏も興味深い記事「シオニストがエルサレムから逃げていく」を書いています。併せてお読みください。