『季刊戦争責任研究61号』でパペの「橋渡しのナラティヴ」から学ぶ和解論批判

『季刊 戦争責任研究』第61号(2008年秋季号)
  (日本の戦争責任資料センター、2008年)
『イラン・パペ、パレスチナを語る――「民族浄化」から「橋渡しのナラティヴ」へ』
  (ミーダーン編訳、柘植書房新社、2008年)


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 日本の戦争責任資料センターで出している雑誌『季刊 戦争責任研究』の最新号61号に、早尾貴紀「「和解」論批判――イラン・パペ「橋渡しのナラティヴ」から学ぶ」を書きました。
 内容は、朴裕河氏の『和解のために』やそれを礼讃する日本の知識人、そしてその流れをヨイショしている朝日新聞を批判するものです。和解だ、和解だっていう議論そのものがもつ隠蔽された政治性、和解の押しつけという暴力性の問題です。
 そもそも、日本と韓国が対立しているという単純な構図を捏造して、それに立脚した和解論など、責任を回避するための議論にほかなりません。日本と韓国はお互いに「対立」しているのでしょうか? 日本と韓国はどちらも同じナショナリズムの主張をしているのでしょうか?
 こんな粗雑な議論が、歴史を軽視し、戦争責任・戦後責任を曖昧にするのです。

 イスラエル/パレスチナについても、同様のことが言えます。新聞などで繰り返される、「憎悪の連鎖」「テロと報復の悪循環」という単純化された表象が、いかに「占領支配」の問題を隠蔽してきたことか。
 おかげで、「日本が双方の仲介者になって、和解の土壌をつくりましょう」、などという傲慢きわまりない歪んだ認識が蔓延しています。
 「平和と繁栄の回廊」構想だなんていう日本政府とJICAのODAなんていうのが、そうした「勘違い和解論」の典型です。
 他にも、パレスチナ人による「テロ」で遺族となったユダヤ人と、イスラエル軍の軍事侵攻で遺族となったパレスチナ人を交流させて、平和へのアピールをさせるような試みも、あるいはイスラエルとパレスチナの子どもたちを日本に連れてきてサッカーの試合をさせるような試みも、この種の単純な和解論に乗っています。
 基本的な問題認識からもほど遠い自己満足というしかないでしょう。

 ということで、そういった単純化を排した実証史家イラン・パペ氏の歴史認識論、歴史学実践を手掛かりにしつつ、「和解」論議を根本的に批判してみました。日本の戦争・戦後責任も、パレスチナ/イスラエル問題もともに。
 『イラン・パペ、パレスチナを語る――「民族浄化」から「橋渡しのナラティヴ」へ』(ミーダーン編訳、柘植書房新社、2008年)とぜひ併せてお読みください。

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 なお日本の戦争責任資料センターはこちら。
 『季刊 戦争責任研究』第61号の特集は、「侵略戦争と弾圧の犠牲者たち」。
 
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