「和解」を考えるための基礎としてーー小菅信子『戦後和解』

小菅信子『戦後和解ーー日本は〈過去〉から解き放たれるのか』、中公新書、2005年


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 朴裕河『和解のために』の大佛次郎論壇賞受賞が象徴するように、「和解」が流行っている。この問題については、尹慧瑛『暴力と和解のあいだ』を扱ったときにも触れたが、「対立と和解」という語り自体がひじょうに魅惑的であると同時に危険なものである(その点、尹氏の研究は、慎重なものであった)。
 「和解」という心理学的なニュアンスを色濃く反映させているテーマは、とかく「心理」主義的な次元で語ることに陥りがちであるのだ。これは、ナショナリズムについての議論全般に関わる困難でもある。議論が感情的だということではなく、「統一された国民主体」を一人の人間の意識であるかのごとき比喩でもって語ることの過誤についてだ。
 たとえば、「日本」という集合的人格と、「韓国」という集合的人格とが、「鏡写しのようにそっくりな愛国心」をいだき、「相互に憎しみあっている」とか、そういう粗雑な比喩で語ることの安易さ・リスクをともなった、無自覚なナショナリズム/ナショナリズム批判が横行しているように感じる。

 この点、小菅氏の仕事は、巨視的なパースペクティヴから、つまり前近代から近代/戦後にかけての「和解」をめぐる思考様式の時代変遷と、日本、東アジア、東南アジア、ヨーロッパ、アメリカといった地理範囲(とその相互間における戦争・戦後処理)と、そして「和解」の背後にある「政治経済的利害」、この三点を含むパースペクティヴから、議論を立てている。安易な「対立する両者」の相互主張とか相対性といった構図の立て方などはしていない。
 また政府レベルと民間レベルと当事者レベルといったそれぞれの次元での、「和解」へ向けた役割や可能性や限界についても、周到に腑分けして論じられている。
 けっしてラディカルなナショナリズム批判が展開されているわけではなく、著者自身の政治スタンスもよくわからないところもあるのだが、新書の分量で、これだけの情報量とバランス感覚でもって、「和解」に関する議論が明晰に展開されているだけでも、有用な一冊である。

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