「無国籍者」から問い直す国家主権ーーバトラー/スピヴァク『国家を歌うのは誰か?』

ジュディス・バトラー/ガヤトリ・スピヴァク、『国家を歌うのは誰か?ーーグローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属』、竹中和子訳、岩波書店、2008年

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 この本は、アーレントにおける「無国籍」問題を切り口に、理論的には、グローバル資本主義世界における国民概念や国家主権を問い直す、というもの。それにしても、バトラー&スピヴァクというビッグネームの取り合わせだけで、おおっと思わせられてしまいます。
 が、しかし、、、まず手に取ってみて誰もが思ったことでしょう。「え?、このページ数と余白の広さとで一冊にするの?(しかも四六版上製)」。対談本文88ページ。それだって、余白・行間を広くとり1ページの字数を抑えたことで獲得したボリュームでしょう。1ページの字数は600字で新書並み。訳者解説を入れても100ページ強で、それで1785円はないでしょう。
 そして次に、読み始めると驚かされるのは、冒頭から半分すぎの50ページまで、延々とバトラーが語り続けていること。しかも、始まりで、どういう対談の場であるかなど、文脈も示されず、いきなりバトラーが核心部分に入り込む。実は司会がいるにもかかわらず、です。
 うーん、本の完成度としてどうなんだろうか、と思わずにいられません。二人のネームバリューにあやかった商売主義と言われても仕方ないでしょう。

 にもかかわらず、僕が買って読もうと思ったのは、「無国籍」が切り口になっていること、そしてパレスチナ/イスラエル問題に随所で言及があること、この二点です。

 問題関心としては、大きく拙著『ユダヤとイスラエルのあいだーー民族/国民のアポリア』と重なっています。
 国籍や国民そのものについての問い直しは、拙著序章「「偽日本人」と「偽ユダヤ人」」、アーレントの批判的読解については、拙著5章「ハンナ・アーレントの 「沈黙」」、バトラーのイスラエル批判については、拙著6章の「ジュディス・バトラーの 「躊躇」」、パレスチナの国家主権の行方については、拙著終章の「イスラエル/パレスチナにおける国家理念の行方」。こういった具合に、この対談は、僕自身の問題関心と重なっていました。
 加えて、近刊の論集『ディアスポラから世界を読む』(臼杵陽監修/赤尾光春・早尾貴紀編、明石書店)のために書いた拙稿「ディアスポラと本来性――近代的時空間の編制と国民/非国民」で、アーレントの「無国籍」論を読み直す作業をしたところでした。

 アーレントが1951年に(つまり世界大戦のわずか6年後、イスラエル建国のわずか3年後に)刊行した『全体主義の起原』で論及された「無国籍者=無権利者」の問題が、その時点でどれだけの思想的な提起になっていたのか、そしてそれを現代世界から読み解くことができるのかが、バトラーが冒頭から提起したことであり、その後の対談全体の基調となっています。
 とくにスピヴァクの側が強調していることですが、アーレントの時代と現代とでは、グローバル化された資本の運動によって、与えられている条件がだいぶ異なること、そしてアーレントはなおヨーロッパのことを考えており、「(複数の)アジア」については目が行っていないこと、そういった限界が指摘され、二人はアーレントを出発点にして、しかし「アーレントに逆らって」論を進めます。

 あまりに短い分量のためもあり、議論の展開に制約は大きくありましたが、興味深いと思ったところを二つ。
 第一に、拙著ではバトラーのイスラエル批判についての不満を述べましたが(占領政策批判にとどまっているのではないかと)、この対談でバトラーが「無国籍」概念に論及した点については、共感を覚えました。第二に、スピヴァクがつねにインドやアフリカの具体的な事例・人物を示しながらバトラーに応答しているところも、好印象でした。
 しかし、グローバル化/グローバル資本主義って言えばよく「国家の退場」が叫ばれますが、二人もそう言うほどに「国家」って衰退しているのかなぁ? 

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