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早尾貴紀:本のことなど
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本など読まなくても生きていけますが、逆に、本の世界に没入することも、社会に対して「没関心」になることであるかもしれません。でも、個々人が古今東西を直接見ることができるわけではなく、一人一人の力は限られています。有限な人間の力を外に開き、多様性へと接続していくために、読書を重ねていこうと思います。(本の紹介を主目的としたものであり、「日々の雑感」や「読書日記」といったいわゆるブログではありません。)
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臼杵陽監修/赤尾光春・早尾貴紀編『ディアスポラから世界を読む』(明石書店)、ついに刊行!

2009/07/03 11:19
臼杵陽(監修)/赤尾光春・早尾貴紀(編)
『ディアスポラから世界を読む――離散を架橋するために』
明石書店、2009年


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 二年前に同タイトルでワークショップをおこないました。そのときから論集化を前提として、完成度の高い報告・草稿と討議を積み重ねてきました。満を持しての刊行です。(担当の兵頭さん、ありがとうございました!)

(カバー折り返しより)
「ディアスポラ」から世界を読み解く。
西洋近代において周縁化された
ユダヤ、アルメニア、カルムイク、ブラックアトランティックから、
東アジアの歴史空間を浮動する
回族、華僑、朝鮮、在日、沖縄・奄美まで、
国民国家に回収されない人びとの離散を架橋する、
脱領域的「ディアスポラ学」の試み。

 なにはさておき、目次をご覧ください。
序論 「方法としてのディアスポラ」の可能性
     臼杵陽

【第一部 ディアスポラと西洋近代】
序  ディアスポラについて、つねに複数として、かつ横断的に
    思考する 鈴木慎一郎
第一章 追放から離散へ――現代ユダヤ教における反シオニズム
     の系譜 赤尾光春
第二章 故郷を創る――アルメニア近代史に見るナショナリズム
     とディアスポラ 吉村貴之
第三章 「三度目で最後の大陸」にいたるまで――カルムイク・
     ディアスポラの四〇〇年 荒井幸康
第四章 ユダヤ・ディアスポラとブラック・ディアスポラ――
     比較・類比・鏡 浜邦彦
第五章 ディアスポラと本来性――近代的時空間の編制と国民/
     非国民 早尾貴紀

【第二部 東アジアにおけるディアスポラ】
序  「振り返ってみると」と「ふと気がつくと」――ディアス
    ポラを書くことの認識論 丸川哲史
第六章 離散と集合の雲南ムスリム――ネイション・ハイブリデ
     ィティ・地縁血縁としてのディアスポラ 木村 自
第七章 韓国華僑の外なる「故郷」と内なる「祖国」
     王恩美
第八章 民族と国民のあいだ――韓国における在外同胞政策
     金友子
第九章 否定の民族主義のゆくえ――在日朝鮮人とディアスポラ
     洪貴義
第一〇章 「脱線」からアチャラカへ――下町の「辺境」三ノ輪
     "界隈"の文化 本山謙二

付 録 「ディアスポラ」のディアスポラ
     ロジャーズ・ブルーベイカー
 宣伝ポイントとしては:
・赤尾&早尾が翻訳刊行したボヤーリン兄弟『ディアスポラの力』(平凡社)の敷衍可能性を実践に移す試みである。
・二人の人脈から、思想研究/地域研究/文化研究のフィールドから、幅広く気鋭の若手研究者を結集している。
・対象地域も広範であり、「世界の読み直し」の出発点を目指している。
・当日コメントをいただいた、臼杵陽さん、鈴木慎一郎さん、丸川哲史さんに、本書にもコメント論考をいただいている。
・人文系で話題となり多く引用されているブルーベイカーの注目論考が付録として全訳収録されている。

 お買い得だと思います。ぜひお買い求めください!
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ディアスポラから世界を読む
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『排除型社会』の続編――ジョック・ヤング『後期近代の眩暈』

2009/07/02 17:56
ジョック・ヤング『後期近代の眩暈(めまい)――排除から過剰包摂へ』、木下ちがや・中村好孝・丸山真央=訳、青土社、2008年

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 前回挙げたジョック・ヤング『排除型社会』(洛北出版)の続編となる本。ついでに紹介。
 「排除」が単純な一国内での排除傾向で済まず、同時にそのグローバル化が進行するのはなぜか。世界規模で労働力の流動化・不安定化や、伝統的コミュニティ(家族)の崩壊が起こる。つまり、福祉国家的な包摂社会を捨て、ネオリベラリズム的な排除社会になったところで、個人の自由は喪失してしまうという逆説が生じている。本書では、この「逆説」に焦点を当て、オルタナティヴ提言へさらに議論を進めている。
【目次】
第1章 境界線を越えて
第2章 ゆらぐ二項対立ビジョン
第3章 復讐心の社会学/違犯の犯罪学
第4章 カオスと秩序の再編
第5章 労働の衰退と不可視化された使用人
第6章 社会的包摂と労働をつうじた代償的救済
第7章 境界を越える――風雨吹きすさぶ海岸に
第8章 テロリズムと「反テロ」というテロリズム
第9章 排除型コミュニティ
第10章 他の場所への道

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後期近代の眩暈―排除から過剰包摂へ
青土社
ジョック・ヤング

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社会的包摂を目指した ...
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「監視社会反対」を叫んで逮捕されるこの頃、ジョック・ヤング『排除型社会』を読む

2009/07/01 18:00
ジョック・ヤング、『排除型社会――後期近代における犯罪・雇用・差異』、青木秀男・伊藤泰郎・岸政彦・村澤真保呂=訳、洛北出版、2007年

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 先日、防犯カメラ付き自動販売機を破壊したとして、19歳の少年(会社員)が逮捕されました。この防犯カメラ&警察への通報機付きの自動販売機は、警察とコカ・コーラ社とが協力したもの。「お助け自動販売機」と呼ばれているそうです。
 昨年これが愛知県に設置されるや、ニュースにもなり、同時にその自販機のカメラ部分やセンサー部分が破壊されたり、さらに「監視社会!」や「カメラ反対!」というスプレーでの落書きがされるという事件が何度か起きはじめていました。
 そらまー壊したくなる気持ちもわかります。物理的に破壊することの是非はさておき、路上の自動販売機に顔とか行動が撮影されているかと思ったら、気持ち悪いというふうに感じるのが当たり前じゃないのかなぁ。ところが、いまの社会の風潮は、安全・治安のためには、プライバシーも自由も制限されていい、というふうになってきています。
 ブッシュの「対テロ戦争」がミクロ化されて浸透してきたこともあってか、あちこちに、ホント田舎の小さな駅の掲示板にまで、「テロリストはあなたのそばに潜んでいる」とか、「怪しい外国人を見たらすぐ通報を!」などという、通報を呼びかけるポスターが恒常的に貼られています(その標語はレイシズムじゃないの?)。
 そして、商店街・アーケード・講演などへの監視カメラの設置が進んできています。
 いまでは、渋谷のハチ公前スクランブル交差点の頭上にある大型ビジョンに、民間の看板会社が個人識別可能なカメラを設置しています。信号待ちでうっかりビジョンを見上げたら、データを取られてしまうわけ。その会社では、「全国展開」を目指しているらしいです(関連記事はここ)。

 しかし、、、犯罪率が急に上がっているとか、あるいは「防犯カメラ」が実際に防犯に効果を上げているのか、といったことに照らして、こういった日常的監視体制がその掲げる必要性や大義に沿っているのかは大いに疑問。
 この問題について、近代の「包摂型社会」から、「排除型社会」へと転換してきた(これが後期近代を特徴づける)、と論じているのが本書、ジョック・ヤング『排除型社会』(洛北出版)。訳者の簡潔な整理を引用すると、
人々は、安全な道徳空間を防疫境界線で囲い込み、そこから危険と思われる人々を排除していった。しかしそれでも、完全な防疫境界線を引くことはできず、犯罪のリスクを確実に抑えることはできない。他方、犯罪の統制機関(刑事司法制度)は、ささいな反社会的行動をも犯罪の予兆とみなし、それらを厳格に摘発するゼロ・トレランス政策を取っている。しかしそれも、刑務所の収監人口を増やしこそすれ、犯罪の発生を抑えることには役立っていない。

 もちろん、これは重厚な本書の論点の一部にすぎません。本書はさらに、差異に不寛容な排除型社会の文化論に踏み込んでいっています。他者、とりわけエスニック・マイノリティと壁をつくり、周縁化・排除をしていくことで、自文化中心主義的なアイデンティティ保持をしていってしまう、そうした文化的側面も扱っています。
 そして著者は、それへのオルタナティヴをも提示していきます。詳しくは本書で。

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排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異
洛北出版
ジョック ヤング

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スピヴァクの具体的な顔が見える思想と活動のエッセンス――『スピヴァク、日本で語る』

2009/06/29 23:36
G・C・スピヴァク、『スピヴァク、日本で語る』
鵜飼哲監修・解説、坂元ひろ子序文、岩崎稔・李静和・竹村和子・大橋史恵=応答、本橋哲也・新田啓子・竹村和子・中井亜佐子=訳、みすず書房、2009年

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 スピヴァク氏の来日講演・討議の全体像。すでに出ているスピヴァク氏の諸著作の背景と意図とエッセンスを伝えるとともに、さまざまな立場の研究者からの応答に丁寧に応えている。
 各講演では、『ポストコロニアル理性批判』(月曜社)、『ある学問の死』(みすず書房)、『他のアジア』(近刊=岩波書店)といった著作内容に触れつつ、しかし日本での講演であることを強く意識した補足を盛り込んでいる。日本研究者でないにもかかわらず、松井やより、目取真俊、大江健三郎といった固有名に言及があるというのは、いわゆる海外ゲスト来日講演ものとしては、異例と言える。
 まだ日本語訳のない「他のアジア」のエッセンスが読めるのも貴重だ。

 応答のなかでとりわけ感動的であったのは、済州島四・三事件と「アカ狩り」の時代を体験せざるをえなかった家族のことと、元「従軍慰安婦」のことを想起しつつなされた、李静和さんの「「洗練」を想像すること」。これは、李静和『つぶやきの政治思想』(青土社)という特異な書物――ほとんど一冊の長篇詩――を自己引用しながら、その誕生の背景を語ったものでもあった。
 この応答は、インド独立前の西ベンガルのカルコタに生まれ育ち、長くアメリカ合衆国で学び・教えつつも、絶えず故郷の子どもたち・女性たちの教育のために労力と金銭を惜しまず活動を継続しているスピヴァク氏に対する、そして「サバルタン」という問題提起をしているスピヴァク氏に対する、もっとも切実な応答であったと思う。
 というのも、静和さんの触れた四・三事件の当事者たちと元「慰安婦」たちは、語らないこと・語りえないこと、それでもなお語ることを求められること、語らせられる暴力と、語りの戦略と、そうしたもろもろの証言の問題を背負わせられているからだ。
 そしてスピヴァク氏、静和さんともに、「教育」ということの困難と可能性と責任とを、誰よりも誠実に実践によって引き受けていうように思われる(少なくとも静和さんについては、僕自身が『つぶやきの政治思想』によって重大な衝撃を受け、またさまざまな意味で教えられてもきた)。

 なお巻末の鵜飼哲氏の詳細な解説は、スピヴァクのもっとも早い紹介者であった氏の面目躍如たる適確な要約解説となっていて、これまでのスピヴァク氏の仕事の文脈のなかで本書の講演・討議の意義がよくわかるようになっている。
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スピヴァク、日本で語る
みすず書房
G・C・スピヴァク

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ギルロイをどう読むか――小笠原博毅編『黒い大西洋と知識人の現在』刊行と6月26日トークセッション

2009/06/24 00:09
市田良彦+ポール・ギルロイ+本橋哲也著/小笠原博毅編、
『黒い大西洋(ブラック・アトランティック)と知識人の現在』、松籟社、2009年


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 画期的な書物、ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック――近代性と二重意識』(月曜社)の著者ギルロイを招き、討議し、読解した記録。本書の内容紹介は、松籟社のページに。
日本のカルチュラル・スタディーズを、徹底的にポストコロニアルの視点から鍛え上げてきた本橋哲也と、カルチュラル・スタディーズに対する最も容赦ない、しかし数少ない「まともな」批判者でありながら、決して離れきらずに伴走を続けてくれる市田良彦。限りなく射程の広い、壮大な跳躍をみせるそのディアスポラ理論の中心に、常に音楽を、うたを置いてきたポール・ギルロイと、ジャック・ランシエールを手がかりとしながら、ブルースを「プロレタリアの夜」のうたとして聴き込み、それを解釈体系化された文化から引き剥がそうとする市田良彦。世界十二カ国語以上に翻訳されているカルチュラル・スタディーズのパラダイム・メイカーの一人であるポール・ギルロイと、ポストコロニアル批評が単なる翻訳産業によってパッケージ化された言葉の商品ではなく、世界を現実的に生きるための手段であることを訴え続けてきた本橋哲也。それぞれの独自の言説世界が、それぞれに交接し合っている。その三人が、言葉を投げあい、共鳴させ、反響させる、これはそういう稀有な機会の記録であり、それを出発点として、「文化」をめぐる先鋭的な議論へと読者諸氏を誘うきっかけである。
「まえがき」より

 ギルロイの講演や討議が入り、また編者の長大な解説論考もあり、『ブラック・アトランティック』の読み方を深め広める副読本としても充実している。
 また、本書の刊行を記念して、明後日の6月26日に、ジュンク堂新宿店でトークセッションがあるらしい。
 以下、松籟社のサイトより案内の転載。
◎トークセッション
『「文化政治」は、もう終わったのか……?』

・日時:6月26日(金)、18:30〜
・会場:ジュンク堂書店新宿店 8階カフェ
・入場料:1,000円(1ドリンクつき)
・受付:ジュンク堂書店新宿店7Fカウンターにて。
電話予約はジュンク堂書店新宿店(TEL.03-5363-1300)まで。

『黒い大西洋(ブラック・アトランティック)と知識人の現在』では、各著者がそれぞれの手がかりから、ポール・ギルロイの『ブラック・アトランティック』(月曜社)を読み解き、「文化」についての先鋭な議論が繰り広げられました。今回のトークセッションでは、本書の著者のおひとりである市田良彦さんと、『ブラック・アトランティック』の訳者のおひとりである上野俊哉さんをゲストにお招きして、まず市田さんから、『ブラック・アトランティック』を、どういった手がかりをもとに、いかに読み解いたかを、お話ししていただきます。対する上野さんには、市田さんへの応答とあわせて、『ブラック・アトランティック』や、今後紹介されるギルロイ氏の著作の重要性とインパクトについて語っていただきます。

《講師紹介》
市田良彦(いちだ・よしひこ)
1957年生まれ。神戸大学大学院国際文化学研究科教授。主な著書に『ランシエール』(白水社)、『闘争の思考』(平凡社)など。訳書にルイ・アルチュセール、『哲学・政治著作集』(全2巻、共訳、藤原書店)、ポール・ヴィリリオ、『速度と政治』(平凡社)などがある。

上野俊哉(うえの・としや)
1962年生まれ。和光大学表現学部教授。主な著書に、『ディアスポラの思考』(筑摩書房)、『アーバン・トライバル・スタディーズ』(月曜社)など。訳書にポール・ギルロイ、『ブラック・アトランティック』(共訳、月曜社)などがある。

《司会》
小笠原博毅(おがさわら・ひろき)
1968年生まれ。神戸大学大学院国際文化学研究科准教授。主な著書に『サッカーの詩学と政治学』(共著、人文書院)、『よくわかるメディア・スタディーズ』(共著、ミネルヴァ書房)など。訳書にジェームス・プロクター、『スチュアート・ホール』(青土社)などがある。


【追記】
 トークセッションのレポートが松籟社のサイトに掲載されました。
 こちらをご覧ください

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ブラック・アトランティック―近代性と二重意識
月曜社
ポール ギルロイ

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脳死者が切り捨てられた。では脳性マヒは?――横塚晃一『母よ! 殺すな』/立岩真也『自由の平等』

2009/06/22 22:57
横塚晃一、『母よ! 殺すな』、生活書院、2007年

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 本書の著者・横塚晃一氏は、脳性マヒ者だった。1935年に生まれ、70年代を通じて、障害者運動・自立生活運動の「青い芝の会」を牽引した。78年に逝去。享年42歳。
 本書は、彼が会報・機関誌に書いたもの(口述筆記)や講演録をまとめたかたちで、生前の1975年に刊行された。死後の81年に増補版。今回さらに、未収録だった文章や、映画『さようならCP』のシナリオ、追悼文などを、大幅に増補した決定版として刊行。充実した解説を、立岩真也氏が執筆した。

 脳性マヒ者は、「この世にあってはならない存在」として差別され、隠蔽された。家族にも負担を強い、社会にも支出を強い、しかし経済活動の面では何も生産できない、お荷物とされる。その介護の重荷や、将来への悲観から、親が脳性マヒの子どもを殺害しても、それは大幅な情状酌量を受け、世間からも同情を受けてしまう。
 横塚晃一氏は、このような人間存在を否定するような価値観に対して、徹底的に闘った。差別的な法律や制度に対して、そして差別的な価値観を蔓延させている社会に対して、そして自らの存在を疎ましく思う親に対して。

 「優生保護法と私」という文章にはこうある。
権力者の発想から言わせると、不良な子孫を切り捨てることは、「人類の発展のために必要な処置である」ということになるでしょう。このような言葉で世の多くの人は納得し、納得しないまでも口をつぐんでしまうかもしれません。…でも、どんじりを抹殺したところで次から次へとどんじりは出来て来て、それはこの世に人間がたった一人になるまで続くことでしょう。私は、私自身を「不良な者」として抹殺したあとに、たとえどんなに「すばらしい社会」ができたとしても、それは消された私にとって知ったことではありません。(132頁)

 ここ二回取り上げている、脳死・臓器移植法問題。
 もちろん脳死と脳性マヒは違う。けれども、つながっている。
 まずは脳死患者が切り捨てられた。しかし「どんじりは次から次へと出てくる」ことだろう。次は脳性マヒ患者か? 社会の差別意識は、横塚氏が活動した70年代からまったく進歩していないどころか、退行していくのか。
 脳死問題と共通しているのは、家族の負担とか社会の負担といったことが、存在を抹殺することが正当化されかねないこと。そして、本人の意思とは関係なく、家族が、いや家族に対して社会が圧力をかけることで、家族が決定をくださせられること。

 上記の「優生保護法と私」のなかでは、ナチスがホロコーストで殺したのは、ユダヤ人だけでなく、身体障害者や精神障害者たちもだった、ということが触れられている。実際、鬱病患者までが、「非生産的」ということで絶滅収容所送りになっていた!
 脳死患者が、最後に「生産的」になれるのは、臓器提供をすることにおいてだけ、ということか。死体から髪の毛や金歯を取ったナチスとはたしてどれだけの隔たりがあるというのか。
 この「生産性」「経済効率」の問題は、大量の鬱病者と自殺者を出している現代の日本社会ともつながってくるだろう。
 脳死、脳性マヒ、臓器移植、鬱病、自殺者、ホロコースト、優生思想、差別。異なるけれども深く繋がっているこれらの諸問題を、同時に考えなければならない。そして、疑いなく横塚氏は、徹底的に突き詰めて、この問いを鋭く思考し論じていた。
 いまこそ読まれるべき一冊だと思う。

 前の記事に続いて、立岩真也氏の寄せた解説もまた懇切丁寧。

   *   *   *

 ついでに、その解説に書かれた「再分配」の問題を主題的に論じている立岩氏の別の著書も紹介。

立岩真也『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店、2004年)
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 労働生産物の私的所有(働かざるもの食うべからず)が、実は不当な独占なのだとして、それにもとづく不公正な社会を変革するための思考と理論を提示。「働ける人が働き、必要な人がとる」という社会的分配システムを提起している。
 リベラリズムの名のもとに独占と抑圧は強まり、個々の人間の自由は現在むしろ狭められていっている。そうではなく、「〈自由〉の平等な分配」を。
 この考えを否定するまことしやかな私有=占有派を論敵として並べて、それを丁寧に批判していく。
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母よ!殺すな
生活書院
横塚 晃一

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自由の平等―簡単で別な姿の世界
岩波書店
立岩 真也

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臓器移植法案可決に際して、自己決定/代理決定について考える――立岩真也『弱くある自由へ』、他

2009/06/20 16:09
立岩真也、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』、青土社、2000年

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 再度、一昨日の脳死・臓器移植法案の衆院での可決の機会に書いておきたい。
 脳死を人の死と事実上認定する案が、多数決で大差で可決されてしまった。これで、生前における本人の意思の確認を必要とせずに、医者が家族の同意を取り付けて、脳死状態とみなされた患者の治療を止めて、生きている臓器を取り出すことが可能となってしまう。

 僕は、ドナー・カード(臓器提供意思表示カード)が導入されたときから、こうなるっていくことは既定路線のように思えて、周囲には任意のドナー・カードに対しても違和感を表明してきた。基本的には、脳死・臓器移植を増やしたいがための制度だ。ドナー・カードを持ちましょう、という宣伝攻勢は強まるだろう。それでも普及が思わしくなければ、ドナー・カードを持つことが義務化されて、提供することを選ぶにせよ提供しないことを選ぶにせよ、意思表示をすることを強要されていくだろうと感じていた。
 そんなことを求められるのも不快だったから、僕は任意のドナー・カードの導入時から、嫌な予感がしていた。

 だけれども、今度の事態は、そんな次元を跳び越えて、一気に最悪のところにきてしまった、と思う。振り返って思えば、まだドナー・カード所持の義務づけのほうがマシだった、ということになってしまうだろう。脳死患者が、予め提供の意思表示を残しておかなかった場合には、本人の意思確認を要さずに、医師が家族の同意を得て、それで治療停止・臓器摘出がオッケ−だなんて!

 ここには「自己決定」/「代理決定」の問題が深く関わってくる。これまでも、医療や介護といった現場では、何かと理由をつけては、患者や障がい者や被介護者の自己決定を制限しようとする動きがあった。しかもそれは、「自己決定」を一般論としては尊重するポーズをとりながら、「しかし現実的には」というまことしやかな事情をつけて、明確な意思表示が不可能だったり困難だったりするのをいいことに、自己決定権を一部の人間に対してだけ制限してこようとするのだ! その「現実」とは、その一部の人間の自己決定を制限することで利益を得ようという、利害関係からしか出てこないのは明白だ。医療費や介護費の負担を削ろうとか。
 今度の脳死・臓器移植法案だってそうだ。移植推進という利害から、ドナーを創り出すためだ。しかもこのことで、今後いっそう加速的に、あからさまに偏った「医療」の重点化が進むだろう(「脳死」とされる状態に対する治療方法だって、あるいは、「移植以外に方法はない」とされる病状に対する治療方法だって、まだまだ発展の余地はあるだろうに、そこにはもう予算はつかないことになってくるだろう。まず移植ありき、だ。)。

   *   *   *

 この「自己決定」/「代理決定」の問題について、とくに脳死や臓器移植だけを主題としているわけではないけれども(それ以外の主題もみな大事だ)、さまざまな医療や介護の場面にそくして丁寧に論じているのが、立岩真也氏だ。この機会に、『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』(青土社)は、ぜひ広く読まれてほしい。
 とくに今回のことに関しては、第二章「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」、と、第三章「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」だ。

 また、この本は、その前に出された大著、画期的大著、立岩真也『私的所有論』(勁草書房、1997年)をもとに、さまざまな局面で書かれた論集だ。『私的所有論』は、かなり綿密に原理的・体系的な論述がなされていて、値段も6千円もするし、450頁もある。丁寧に考えるにはこちらにもつきあったほうがいいけれども、てっとりばやくトピックごとに読むには、『弱くある自由へ』のほうか。
 代理母、障害者運動、優生思想などなど、幅広い問題に触れている。
 そして、さまざまに矛盾する立場・考え方に目配りしながら、丁寧に思考をトレースしている。

 集約もできないバラバラな法案を4つも出してきて、多数決で決めるなどという横暴がまかり通ってしまう恐ろしい社会。せめて国会議員らは、この二著ぐらい丁寧に読むぐらいの熟慮をふまえることはできなかっただろうか、と思う。

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私的所有論
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立岩 真也

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